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2023−7−12
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紀貫之の和歌。貫之集2 | Lê Ma 小説、批評、音楽、アート (amebaownd.com)
紀貫之の和歌。貫之集2
紀貫之家集
已下據『歌仙歌集三』刊行年出版社校訂者等不明。
解題云如已下自撰の集ありしこと後拾遺集大鏡などにみえたれど今のは少なくとももとのまゝにはあらざるべし
三條右大臣御屏風のうた
いたつらにおいにけるかな砂のまつやわか世[身イ]のはてをかたらん
ぬは玉の我くろかみもとしふれはたきのいとゝそなりぬへらなる
春霞立よらねはやみよしのゝ山にいまさへゆきのふるらん
いつしかもこえてんと思ふ足引の山になくなるよふこ鳥哉
あしひきのやましたゝきついは波のこゝろくたけてひとそ戀しき
鶯の花ふみしたく[ちらすイ]木のした[もとイ]はいたく雪ふる春へなりけり
浦ことにさきいつる波のはなみれはうみには春も暮ぬなりけり
梅の馨のかきりなけれはをるひとのてにもそてにもしみにけるかな
とふひともなき宿なれとくる春はやへむくらにもさはらさりけり[新勅撰]
雪宿るしら雲たにもかよはすはこのやま里はすみうからまし
玉もかるあまのゆきかひさすさをのなかくやひとをうらみわたらん[拾遺]
この宿のひとにもあはてあさかほの花をのみ見て我やかへらん
うつろふをいとふと思ひて常磐なる山には秋もこえすそありける
とし月のかはるもしらて[すイ]我宿のときはの松のいろをこそみれ
久かたのつき影みれは難波かたしほもたかくそなりぬへらなる
つなてときいまはと舟をこきいては[のさしていなはイ]我はなみ路をこえやわたらん
山たかみこすゑをわけてなかれ出[來イ]る瀧にたくひておつる紅葉ゝ
さゝの葉のさえつるなへに足引の山にはゆきそふりまさりける
きみまさはさむさもしらしみよしのゝ
よしのゝやまに
ゆきはふるとも
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三条右大臣
(さんじょうのうだいじん。873年〜932年)
内大臣・藤原高藤(たかふじ)の次男、藤原定方(さだかた)のことです。母は、父の高藤が青年の日、鷹狩(たかがり)で雷雨にあい雨宿りをした豪族の屋敷の少女だったそうです。右大臣となり、京の三条に邸宅があったのでこの名で呼ばれています。27番・藤原兼輔(かねすけ)とはいとこ同士で、幼い頃から仲が良かったようです。後に定方の娘は兼輔と結婚しています。醍醐天皇時代には兼輔とならぶ和歌の中心的存在でした。「三条大臣集」には兼輔との贈答歌が多く収められており、二人の親交の深さが分かります。両者とも宇多上皇・醍醐天皇の側近として政府の要職を歴任し、娘の仁善子(よしこか?)は醍醐天皇の女御となり三条御息所と称されました。天皇の外戚となっても政権には関心を示さず、風流を愛する穏和な人物でした。35番・紀貫之や29番・凡河内躬恒などの作歌活動を支える存在として、和歌を普及させました。また、和歌の他、管弦の才能もあり、醍醐天皇の宮廷の人気者であったといいます。「大和物語」の成立にもかかわった中心的な人物です。息子は44番・藤原朝忠です。家集に「三条右大臣集」があります。勅撰集に17首入集しています。
●定方がまだ若かった頃、交野(かたの)へ狩猟に出かけた兼輔の後を追いかけて詠んだ歌が残っています。「君が行く かたのはるかに 聞きしかど 慕へば来ぬる ものにぞありける」(あなたの行き先の交野ははるかな地と聞きましたが、後を慕ってとうとうやって来ましたよ。「兼輔集」都から遠く離れた交野まで後を慕ってきた定方の思いが伝わってきます。)
●「大和物語」には定方とその周辺の人のエピソードが残されています。まだ中将であった時、賀茂の祭りの勅使として出かけた話があります。久しく通わなくなった女性の所に「忙しくて扇を忘れてしまいました。一本ください。」と頼んだところ、色も美しく、香りもすばらしい扇が届けられ、すでに見捨てられた私のつらい気持ちをこの扇に託して贈りますという歌が扇の裏に書いてありました。定方はとてもしみじみとした思いにうたれて返歌を贈ります。「ゆゆしとて 忌(い)みけるものを わがために なしといはぬは たがつらきなり」(男女間で扇を贈物にするのは不吉でつつしむべきことなのに、私のために扇はないと断らずに扇をよこしたのは、他ならぬあなたがつれないことの証拠でしょうか。)
●「今昔物語」巻22には高藤家の繁栄物語として、異例の出世のめでたさが特筆されています。北山科に鷹狩りに出た貴公子藤原高藤(定方の父)は、突然の風雨にやむなく付近の民家に雨宿りしますが、接待に出たその家の娘と一夜の契りを結び、形見に太刀を置いて去ります。ところが、父に外出を禁じられ手紙を送ることもできないまま6年の月日が流れます。その間ひたすら再会の日を待ち続けた高藤は、お供をした男を召してその家を再び訪れると、娘には彼の子である女の子が生まれていました。不思議な縁に心打たれた高藤は彼女と結婚し、男の子が2人(兄は定国、弟は定方)続いて生まれます。彼は出世して内大臣となり、女の子はやがて宇多天皇の女御となって醍醐天皇を産みました。その奇縁の家の跡が今の勧修寺です。この話は当時人々によく知れわたっていたようです。