絵2-5 山口草平 ホタル狩 4万円
掛軸寸法(幅)39×(縦)185cm
本紙寸法(幅)36×(縦)117cm

本紙は 絹本。
作は 山口草平 。

山口草平 やまぐち-そうへい
1882−1961 大正-昭和時代の挿絵画家。
明治15年生まれ。独学で日本画をまなび,文展,院展などに出品した。大正10年ごろから「サンデー毎日」や「朝日新聞」の連載小説の挿絵を担当。代表作に大仏(おさらぎ)次郎「水戸黄門」(昭和9年「朝日新聞」)がある。昭和36年7月8日死去。79歳。大阪出身。国学院専門部卒。

この画家は 昔テレビドラマで 覚えていらっしゃる方も あるかもしれません。 ↓

女橋』(おんなばし)は、藤本義一の小説作品、及びそれを原作としたドラマ化作品である。両腕を失いながらも芸を習い、子供を生み育て何度か死を考えながらもたくましく生きた一人の女の壮烈な一代記。

明治38年夏、大阪の遊廓で妻の浮気がもとで乱心した楼主(垂水悟郎)が日本刀で6人もの人間を殺傷するという事件が起きた。芸妓千代吉・佐原ちよ(市原悦子)は運悪く両腕を切り落とされたものの、九死に一生を得た。
悪夢のような災難にちよは一時絶望的になったがやがて気を取り直し足と口を使って身の回りの始末をすることをおぼえた。そんなちよに突然結婚を申し込んだ男がいた。大阪の画家、谷口艸香(片岡秀太郎)だった。

この 谷口艸香というのが 山口草平です。

まあ こんな風にその昔 世間を賑わした 画家でした。
私の知る限り 凄い繊細な人のように 感じます。
多感で 感傷的、 感情量の 多い体質でしょう。

この時代の画家は 酒豪で 磊落な人が 多いのですが
おそらく 草平は ま反対の 線の細い 傷つきやすい性格のようで
作品の中には そういう沈み込むような 傑作が あります。

今日ご案内の ホタル狩りは 大阪中の島 又は 大川あたりの 風景です。
子供が 団扇を持って 楽しそう。
めずらしい 図柄ですので ご案内しておきます。

状態 良好です。
強く おススメ申しあげます。

 


表具は 裂表具。
一文字 銀襴
外廻し 定家どんす  
軸先 頭切 天然木
箱 桐

 

大石 順教(おおいし じゅんきょう、本名:よね、芸妓名:妻吉 1888年3月14日 - 1968年4月21日)は、元・大阪堀江の芸妓、日本画家、真言宗山階派の尼僧。大阪市出身。本名は大石米子[1]。仏光院の自坊で遷化(世寿81歳)。 但し『歌日記』にれば本名は「米子」でなく「よね」、また次女でなく長女となっている。[2]

生涯
道頓堀付近の「二葉寿し」の次女として生まれた。生まれて間もなく養子に出され、幼少の頃、山村流に師事し、1899年(明治32年)、名取となる。1901年(明治34年)、堀江のお茶屋(貸座敷)「山梅楼」(やまうめろう)の芸妓になり「妻吉」と名乗り、その主人である中川萬次郎の養女となる。
そこで舞を精進していたが、1905年(明治38年)、養父の萬次郎が内縁の妻に対する邪推から楼内で刀を振るい、6人を殺傷(「堀江六人斬り事件」)、事件に巻き込まれた妻吉は両腕を切断されながらも、一命をとり止めた[3]。
その後、彼女は地方(じかた、演奏する芸妓)に転向し長唄、地歌などを披露しつつ二代目三遊亭金馬の一座などに入り、松川家妻吉の名で旅の巡業をはじめるようになった。
その間、巡業先の仙台の旅館でカナリアが嘴で雛に餌をやる光景を見たことをきっかけに、口で字を書く技法を習得する[4]。出家して尼僧になろうと考え、持明院の高僧・藤村叡運(1848年−1917年)に相談すると「まず人の妻、人の母になってからだ」と諭され、いったん断念した[5]。
1912年(明治45年)、日本書画家山口草平と結婚、同年に長男、1917年(大正6年)に長女をもうけた。しかし夫の不倫により、1927年(昭和2年)に協議離婚し、身体障害者の相談を始める。
 

女橋』(おんなばし)は、藤本義一の小説作品、及びそれを原作としたドラマ化作品である。両腕を失いながらも芸を習い、子供を生み育て何度か死を考えながらもたくましく生きた一人の女の壮烈な一代記。

明治38年夏、大阪の遊廓で妻の浮気がもとで乱心した楼主(垂水悟郎)が日本刀で6人もの人間を殺傷するという事件が起きた。芸妓千代吉・佐原ちよ(市原悦子)は運悪く両腕を切り落とされたものの、九死に一生を得た。
悪夢のような災難にちよは一時絶望的になったがやがて気を取り直し足と口を使って身の回りの始末をすることをおぼえた。そんなちよに突然結婚を申し込んだ男がいた。大阪の画家、谷口艸香(片岡秀太郎)だった。
 

 

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