討ち入りたくない内蔵助 (文芸社文庫 し 6-2) 白蔵 盈太 (著)
面白いです。

 

 


花入47 大石旧邸 瓦 花入 中川浄益 南鐐 おとし 
        十一世 玄々斎 箱書
長さ36cm 立上り15cm

「時は 元禄15年 師走半ばの14日(トントン=扇で机をたたく音) 江戸の夜風をふるわせて 響くは 山鹿流儀の陣太鼓 しかも 一打ち二打ち三流れ‥ 」

と 御馴染みの 赤穂浪士 討ち入りの お話で ございます。 トトントン。

大石内蔵助の 御屋敷の 軒瓦が これ。
中川浄益 が 南鐐で 落としを 作って 豪華版。
 箱書は なんと 十一世 玄々斎 

ここまで きますと もはや ご説明は 御不用と 存じ上げます。

瓦そのものは 勿論 欠けたりしております
これが 幾星霜を経て いかにも 歴史を 感じさせるので ございます。

箱は 二重箱。
次第は いうこと ございません。
強く おススメ申しあげます。

ところで 12月の お花って どんなの?
まあ 色々あるんでしょうが 蝋梅に 神楽椿なんか いかがでしょうか。


この浄益は 八代 と 判断しております。

 

 


箱書には
高範国(城主の御殿医) に頼まれて 釣花生に 愚好む として
忠も義も 巴の紋を 慕いけり とよんで 銘は 紋鏡
これまた 丁寧な 箱書で 助かります。

 


中川浄益 南鐐 おとし    

11代千 宗室(せん そうしつ、1810年(文化7年) - 1877年(明治10年)7月11日[1])は、日本の茶人で裏千家11代家元。号は精中、玄々斎

人物
1810年(文化7年)三河国奥殿藩4代藩主(大給)松平乗友の五男として生まれる[1]。1819年(文政2年)に10代柏叟宗室(認得斎)の養子となった[1][注釈 1]。1826年(文政9年)に認得斎が没し、その長女萬地と結婚して11代家元となる[1]。

萬地は1845年(弘化2年)に亡くなり、認得斎次女の照を後妻とする[1]。萬地との間に長男(夭逝)、照との間に次男千代松(一如斎、1846年 - 1862年)、長女猶鹿子(1850年 - 1916年)が生まれた[1]。一如斎は後継と目されていたが1862年(文久2年)に没したため、翌1863年に兄渡辺規綱の末子である正綱[2]を養子(宗淳、徹玄斎)とするも後に離縁となる[1]。明治維新を経た1871年に京角倉家・角倉玄祐の子を婿養子とし、12代家元(又玅斎)とする[1]。その後も隠居ながら精力的に活動し、1877年(明治10年)7月11日に没した。