なや福寿堂の作家ご紹介。 このページは 日本画家 菅楯彦 を 中心ご その 門下生達を紹介します。 菅楯 彦  生田花朝 等。

菅 楯彦 すが たてひこ (1878〜1963)

明治11年鳥取県に生れる。本名は藤太郎。初め盛虎、のち静湖と号す。父は日本画家菅盛南。幼いころ大阪に移り、師はなく独力で土佐派その他を学ぶ。大阪に長く住み好んで大阪の庶民風俗を描く。大阪市民文化賞、大阪府芸術賞などの外、長年の日本画活動とその業績により、昭和33年の第14回日本芸術院恩腸賞を受賞する。37年大阪市名誉市民となる。昭和38年大阪市で歿。享年85歳。  

 

書182 菅楯彦(静湖) 丹香堂宛 消息 青き息、、、 2万円 合せ箱

 

雛絵12 菅楯彦 立雛 6万円 合せ箱
掛軸寸法 38×191cm 本紙寸法 33.5×104.5cm

 

絵57 菅楯彦 化粧の紅 、白粉 双幅  15万円 合せ箱

 

絵84 菅楯彦 菊 自画賛 3万円 合せ箱

絵41 菅楯彦 大国主命 3万円  
      柚里 極め箱 

絵5 菅楯彦 獅子舞 8万円 共板

 

絵199 菅楯彦 研師 鎧師 双幅  13万円 共箱

絵117 菅楯彦 花祭り  45000円 合せ箱

絵125 菅楯彦 自画賛 西行法師 銀の猫の図 35000円 合せ箱

 

 お買い上げ有難うございました。

絵126 菅楯彦 自画賛 烏帽子司 2万円 合せ箱

 

書74 菅楯彦 一鳴銅羅皷 6万円 合せ箱 二重箱

e85 菅楯彦 大伴田旅人讃酒 ¥220.000.- 紙本縦物 合せ箱

 

絵42 菅 楯彦 山部赤人 10万円 合せ箱

 

   

「中秋月」

 蘇東坡

暮雲収蓋溢清寒 銀漢無聲轉玉盤

此生此夜不長好 明月明年何處看

 

 

ヨロシクねぇぇぇーーー バブゥーーー。

生田 花朝女(いくた かちょうじょ、1889年(明治22年)11月22日 - 1978年(昭和53年)3月29日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。

菅楯彦と北野恒富の門人。本名、生田稔(みのり)。始め花朝と号し、のちに花朝女と号した。1889年、大阪市天王寺区上之宮町で生まれており、現在は生誕地の碑が建っている。父は国学者の生田南水。父に俳句、藤沢黄波に漢学、近藤尺天に国学を学ぶ。大阪第一師範学校附属小学校を卒業後、喜多暉月に四条派を教わる。1912年、菅楯彦に師事してまず大和絵と有職故実を学んでいる。1921年に北野恒富に預けられ、白耀社にも所属した。1925年の第6回帝展に出品した「春日」が初入選を果たした。翌1926年の第7回帝展に出品の「浪花天神祭」(所在不明)が、帝展における女性画家による初の特選となっており、当時は注目を集めた。さらに翌1927年、第8回の帝展に「四天王寺曼荼羅」(大阪城天守閣蔵)を無鑑査で出品、これ以降、1934年の第15回帝展まで連続入選をしている。また、この間、1930年、第2回聖徳太子奉讃美術展には「春宵興会」を無鑑査出品したほか、1936年秋に開催の文展招待展に「泉州脇の浜」という作品を招待出品をすると、その後、1939年、1941年と新文展に無鑑査で出品している。

1945年3月の米軍の大阪市への大空襲にて画室が焼失。奈良県の法隆寺に疎開した[1]。

第二次世界大戦後は、1949年の第5回日展に「投壺」を依嘱出品、1954年の第10回日展、1967年の第13回日展にも作品を依嘱出品している。花朝女は樗会を主宰し、菅楯彦の画風を継承して主として大阪の風物を親しみを込めて描き続けた。その功績により、1952年に大阪市民文化賞を受賞、また、1958年には大阪府芸術賞を受賞した。1978年3月29日、大阪・帝塚山の自宅で死去。享年88。

 

 

絵の掛軸

無季の掛軸 慶事の掛軸
雛の掛軸   仏事の掛軸

 

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