茶杓31 宗完 竹茶杓 銘 物集女(もずめ) 25,000円 共箱
櫂先丸形 丸撓め 直腰 切止4刀 白竹 長さ18.3cm
始めに この 物集女 という銘ですが 解りやすくするために 物集女街道の 地図を ごらんください。
上の 赤い線が 物集女街道 で 大坂高槻から 北上して 京都の嵐山に いたります。
ほぼ 現在の 阪急京都線です。
この地帯は 古くは 古墳時代から 人がすみついていました。
「物集女」という地名の語源については、「河内国大鳥郡の百舌鳥(もず)に勢力をもっていた一族が、この地に移り住んだ」といった説明がなされることもある。 ... また、地名について、『太平記』などでは鵙目と表記されることもあった。
等々の 言い伝えが あります。
この 物集女街道 に沿ってある 名所旧跡は おそらく 300を 超えます。
それにまつわる お話は 1000を ゆうに こえるでしょう。
そのすべてが この 物集女 という 言葉に 込められています。
地名は 銘に よく使われますが 深草 という銘も なかなか深いものがあります。
実に 意味深い 銘 と申せます。
なので 道具立てには 活躍してくれる ことでしょう。
白竹。
中節より 櫂先にかけて 幅広の 二本の樋。
全体 あっさりした 清潔感のある 姿です。
状態 良好です。
強く おススメ申しあげます。
「物集女」という地名の語源については、「河内国大鳥郡の百舌鳥(もず)に勢力をもっていた一族が、この地に移り住んだ」といった説明がなされることもある。
... また、地名について、『太平記』などでは鵙目と表記されることもあった。
現在の向日市一帯には、縄文時代から集落が形成されており、古墳時代後期の6世紀には物集女車塚古墳が造営された[1][5][6]。
『日本紀略』によれば承和7年5月13日(840年6月16日)淳和天皇の火葬が行われ[7]、その火葬塚がある[8]。
中世には国人勢力として、物集女氏などが勃興したが、物集女氏は、1575年に織田信長の支配下で細川藤孝によって滅ぼされた[1][5][9]。物集女氏の居城であった物集女城は、堀や土塁の一部が残された物集女城跡となっている[1][5][10]。
物集女街道は、京都の中心市街地をバイパスして京都盆地の西縁をほぼ南北につなぎ、物集女を経由して山陰街道と西国街道を連絡する街道である[11]。現在では、府道西京高槻線の愛称とされている[13][14]。
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