書48 澤庵宗彭 緑水青山
玄室大宗匠 極め箱
掛軸寸法28.3×178.5cm
本紙寸法26.3×106.5cm
本紙は 紙本。
細物にて 姿良し。
書は かの有名な 沢庵和尚です。
え?
と思われるでしょう。
本物です。
文句は 緑水青山 。
良い言葉ですね。
箱書 は 玄室大宗匠です。
以上 まったく問題の無い掛物です。
ここまで はっきりした 沢庵も珍しいです。
とくに 落款の場所と印を ご注目ください。
澤庵叟 上の印(宗彭) 下の印(明暗雙々)
表具は 裂表具。 極上。
一文字 踊り桐唐草文本金襴
中廻し 花文金襴
天地 細絹
軸先 象牙
箱 桐三重箱
状態 極めて良好です。
おススメ申し上げます。
参考資料
7.寝覚臨川寺

寝覚のお寺は、寝覚臨川寺とよばれ、臨済宗の寺心寺派の寺で開山は、山梨県恵林寺の快川国師の法系鉄船禅師であるといわれている。創建は木曽谷が尾張領になったころ、慶長十三年(1608)前後と言われている。
当時は七堂伽藍が備わっていたと言われているが、文久四年(1864)五月十五思火災で、弁財天を残すのみで焼失してしまった。その後文久五年三浦雲宗が本堂、庫裡を再建していたものであるが、昭和0年三浦衛宗によって本堂庫裡が建て替えられ現在に至っている。
・「沢庵禅師」が寛永九年山形県の上の山から京都へ帰る途中寝覚ノ床に立ち寄った。紀行文『木曽紀行』に次の漢詩が
載っているらし。『人間万事黒甜卿 北欝千年寝覚床 古今月独佳賓客 緑水青山主張』漢詩の意味→(人生はすべて夢のごとし。寝覚の床の景色だけは時間を超えて木曽の美しい山々と水とに抱かれ、ただ月だけを相手に仏法の真理だけを語っている)
・境内には、芭蕉、子規、横井也有(尾張の俳人)の句碑がある。また宝暦年山村良由の侍医を勤めた三村道益の墓碑も
ある。三村道益は名を撲といい、字名を季昆と称し普通は、道益とか石床と呼ばれていた。木曽福島の人で医者の家に生
まれた。木曽山中の薬草に目を付けこれを採取したり、栽培と製法を指導し、木曽の薬草の開発に尽くした。
宝暦十一月三十二歳江戸で卒した。寝覚めの「たせや」の先祖と言われているらしい。墓碑の撰文は大石熊耳の筆である
そうだ。
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緑水青山
青い山と緑の水。雄大な自然の情景。
淡交社「茶席の禅語大辞典」
沢庵宗彭
江戸前期の臨済宗の僧。但馬出石生。法諱は初め季喜、のち宗彭。道号は沢庵。号は冥之・東海・暮翁等。俗姓は秋庭。泉南徳禅寺・南宗寺を経て大徳寺百五十三世に出世、住すること三日で退院し但馬宗鏡寺に隠棲した。寛永五年大徳寺に出世した玉隠宗知の勅許をめぐり幕府の忌諱に触れ、出羽上山に流されたが(紫衣事件)、のち赦されて帰洛。後水尾天皇・徳川家光の厚遇を受けた。家光の命により江戸品川の東海寺を開山。詩歌・俳諧・書画・茶道にも通じた。正保2年(1645)寂、73才。
利休居士第15代
前家元 鵬雲斎 千 玄室
大正12年、京都府生まれ。同志社大学卒業後、ハワイ大学修学、韓国・中央大學校大学院博士課程修了。昭和24年、大徳寺管長後藤瑞巌老師のもとで修行得度、斎号『鵬雲斎』安名『玄秀宗興』を受け若宗匠となる。昭和39年10月、裏千家第15代家元となり今日庵庵主として宗室を襲名。平成14年12月、嫡男千
宗之に家元を譲座し、汎叟千 玄室大宗匠。(哲学博士、文学博士)