掘出物

n102 瀬戸大海 茶入 
      宗完 箱書 銘 莵原の里 35,000円
胴径10cm 口径7cm 高さ6.5cm 

 

傷物ですが かなり古いし 形が いいので ご紹介します。

 

そして 銘 莵原の里 というのは とても 良い話ですので 合わせて 御紹介申し上げます。
長くなりますが お付き合い 下さい。

『大和物語』第147

 

益荒丁子(ますらをのこ)() (つま)(たがひ)にあらそひ 生田(いくた)にてを()


上記は画面右上にある原文。「益荒丁子(ますらをのこ)」は「益荒男(ますらお)」のこと、すなわち「立派な男」の意。
摂津名所図会』(江戸時代後期)より。ここに描かれているのは、脚色の加わった『大和物語』第147段、通称「生田川」に基づく内容で、生田川に浮かぶ水鳥を射ようとする2人の男が左手上下に、それを見守る菟原処女が左手中央に見える。石田友汀(石田幽汀の次男)画。

 

 

菟原処女の伝説(うないおとめ の でんせつ)とは、奈良時代より日本の摂津国菟原郡菟原(現在の兵庫県芦屋市および神戸市東灘区付近)での古の出来事として伝えられてきた、一人のおとめ(年若い女性)を巡る悲しい妻争いの伝説である。妻争い伝説(つまあらそい - )ともいう。

2人の男から求婚された娘が自ら命を絶ち、男達も後を追って死んでしまったというもの。


あらすじ
兵庫県神戸市の東部地域から芦屋市域にかけてが、当時の難波の先の湾の湿地帯に茂る葦(あし)を材として屋根を葺いた家々のあったことに由来する「葦屋(あしのや)」の地名で呼ばれていた頃の話である。

菟原処女(うないおとめ)[1]という可憐な娘がいて、多くの若者から思いを寄せられていた。中でも同じ里の菟原壮士(うないおとこ)[2]と、和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の立派な男性が彼女を深く愛し、妻に迎えたいと激しく争うようになった。娘はこれを嘆き悲しみ、「卑しい私のために立派な男たちが争うのを見ると、生きていても結婚などできましょうか、黄泉で待ちます」と母に語ると自ら命を絶ってしまった。茅渟壮士はその夜、彼女を夢に見て彼女が愛していたのは自分だと知り、後を追った。菟原壮士も負けるものかと小太刀をとって後を追った。その後、親族たちは集まって、このことを長く語り継ごうと、娘の墓を中央に男の墓を両側に作ったという。

文学
万葉集
奈良時代末期に成立した『万葉集』では、田辺福麻呂歌集(「過葦屋処女墓時作歌一首」9-1801〜2)[1]、高橋虫麻呂歌集(「見菟原処女墓歌一首」9-1809〜11)[1]、および、福麻呂・虫麻呂に追和した大伴家持の歌(「追同処女墓歌一首」9-4211〜12)[1]の3組が、いずれも菟原処女墓(うないおとめのはか)について詠んだ短歌として知られている[1]。

高橋虫麻呂の本歌「見菟原処女墓時作歌一首 并短歌」と反歌を以下に挙げる。

本歌《原文》 
葦屋之 菟名負處女之 八年兒之 片生之時従 小放尓 髪多久麻弖尓 並居 家尓毛不所見 虚木綿乃 牢而座在者 見而師香跡 悒憤時之 垣廬成 人之誂時 智弩壮士 宇奈比壮士乃 廬八燎 須酒師競 相結婚 為家類時者 焼大刀乃 手頴押祢利 白檀弓 靫取負而 入水 火尓毛将入跡 立向 競時尓 吾妹子之 母尓語久 倭文手纒 賎吾之故 大夫之 荒争見者 雖生 應合有哉 宍串呂 黄泉尓将待跡 隠沼乃 下延置而 打歎 妹之去者 血沼壮士 其夜夢見 取次寸 追去祁礼婆 後有 菟原壮士伊 仰天 叫於良妣 〓[* 1]地 牙喫建怒而 如己男尓 負而者不有跡 懸佩之 小劔取佩 冬〓[* 2]蕷都良 尋去祁礼婆 親族共 射歸集 永代尓 標将為跡 遐代尓 語将継常 處女墓 中尓造置 壮士墓 此方彼方二 造置有 故縁聞而 雖不知 新喪之如毛 哭泣鶴鴨
— 高橋虫麻呂、『万葉集』巻第九「見菟原處女墓時作歌一首 [并短歌]」[* 3]

ヒビが 何本もありますから 傷物です。

蓋は 象牙ではありません。 樹脂です。

仕覆 花唐草文 青貝襴

 

 

 

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