4 天王寺屋宗及 竹茶杓
   筒 文叔 極め (塗箱 愈好斎極め)
   外箱 木津宗泉(聿斎) 極め箱
茶杓 長さ17,8cm(標準)
筒 長さ20,8cm
櫂先丸形 丸撓め 直腰 切止2刀 漆仕上げ竹  

極めて 貴重な茶杓の ご案内申し上げます。
かの有名な 天王寺屋 津田宗及 です。

説明は 画像の下を ご覧ください。
総じて 状態 良好です。


1,元々の箱、 作者なし。
2,筒 文叔、 筒袋アリ。
その隣は  茶杓。
3,愈好斎 箱 朱文字、 一閑塗り。
4,木津宗泉(聿斎) 極め箱 桐。

津田 宗及(つだ そうぎゅう、? - 天正19年4月20日(1591年6月11日))は、安土桃山時代の堺の商人、茶人。天王寺屋宗及とも。名は助五郎、号は天信、幽更斎。千利休・今井宗久とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた。

経歴
堺南荘の豪商・天王寺屋の津田宗達(1504年 - 1566年)の子として生まれる。茶人・武野紹鴎の門人であった父に茶道を教わる。大徳寺住持の大林宗套には禅を学び、後に天信の号を与えられる。

堺の大小路に居所を構える天王寺屋は堺でも有力商人として知られた。宗及は永禄年間には石山本願寺の下間丹後の一族と通じ、次いで堺に勢力を張った三好政康を頼みとしていたが、やがて伸長してきた織田信長に接近。元亀3年(1572年)11月には信長が主催した京都妙覚寺での茶会に参加して接待を受けた。元亀4年(1573年)2月3日には岐阜城で信長の名器の拝見を特に許され歓待されるまでになった。天正6年(1578年)、信長が堺を来訪した際には、自邸に訪問を受けるなどし、重用された。

明智光秀の茶会にも顔を出していたが、後に実権を握った豊臣秀吉にも信頼を得て茶湯者八人衆の一人として数えられ、今井宗久、千利休とともに3,000石の知行を与えられた。黒田如水とも永く親交があり天正15年(1587年)10月1日、豊臣秀吉が九州平定と聚楽第の造営を記念して北野天満宮で開催した大茶湯(北野大茶湯)でも宗久、利休とともに茶会を行った。

子には、宗及に続いて『天王寺屋会記』を記した津田宗凡、大徳寺156世で大徳寺龍光院初世住持・江月宗玩がいる。娘の永薫(えいくん)は、宮中医として知られた半井家の一員で堺で開業していた半井云也に嫁した。

天正19年(1591年)、死去。墓は堺市の南宗寺にある。


愈好斎 箱 宗及作茶杓 文叔筒 官休 花押。
木津宗泉(聿斎) 極め箱 宗及作茶杓 文叔筒 愈好斎箱 聿斎宗泉 花押。
 


節上8,3 節下9,6cm
漆仕上げにより 飴色です。 撓めは ゆるやか。
細目。


節から櫂先へかけて中央に樋あり。


節姿よし。

大阪歴史博物館では、平成24年10月24日(水)から12月3日(月)まで、8階特集展示室において特集展示「大阪の茶の湯と近代工芸−武者小路千家の茶人・三代木津宗詮と大阪の職方−」を開催します。

大阪の地は、その経済発展を背景として江戸時代以来、茶の湯が盛んな土地柄でした。明治維新後に一時衰退しますが、新興の商人らによる新しい茶の湯への取り組みがいち早く始まったのも大阪でした。この大阪の地に本拠を置いた木津家は武者小路千家流の茶人です。

三代木津宗詮そうせん(宗一・1862〜1939)は武者小路千家十二世家元愈好斎聴松ゆこうさいちょうしょうを支えつつ新しい茶道の姿を模索した茶人です。大阪の職方を中心とした新しい道具製作に積極的に取り組んだほか、茶室建築の分野でもその名を知られました。
今回の展示では、今年生誕150年を迎えた三代木津宗詮が、地元大阪の職方と深く関わることで製作された茶道具に焦点を当て、近代工芸作品としての再評価を試みます。同時に、三代宗詮が「茶室建築家」として手掛けた茶室、作庭などの仕事を紹介します。大阪に花開いた茶道文化、そして近代工芸の精華をご堪能ください。「宗泉」と「宗詮」


 木津家3代聿斎が「宗泉」「宗詮」の二つの名前をなぜ使っているのか尋ねられることがあります。それは70歳までは「宗詮」を用い、それ以降は「宗泉」と名を改めたことによります。その経緯は以下の通りです。
 昭和4年(1929)大正天皇の皇后である貞明皇后のために青山に新たに大宮御所が造営されました。なお、昭和26年(1951)5月17日に貞明皇后が崩御なされ、6月8日に「貞明皇后」と追号されています。大正天皇の崩御によりそれ以降、生前中は単に「皇太后」と呼ばれていました。
 大宮御所には、別棟として拝殿と御影殿(みえいでん)が造営されました。御影殿には皇太后宮大夫の入江為守が描いた大正天皇の肖像画描が掲げられていました。そして皇太后の意向で茶室を築造することとなり、木津家3代聿斎はその御茶室の設計・施工の御下命を受けるという栄誉に浴しました。その橋渡しをしたのが川上邦基です。なお、川上と聿斎は平瀬露秀が結んだ縁がもととなっています。ちなみに新御殿は島崎組が請負、御茶室はそれとは切り離して施工されました。 - 後略 -


筒の上部に ヒビのようなものが 長さ 約10cmほどありますが
表面だけで 裏には とうっていません。 
ので ひび割れとは しておりません。


筒の口は まん丸ではなくて 正面が べたッと 平たくなっています。
正面中ほどに ヒビがありますが 内側には とうらず 安定してます。


虫食い 二ケ所あります。 ↑

12代 聴松宗守(愈好斎) 1889−1953
聴松宗守の生涯
聴松宗守は久田家10代久田宗悦の次男として1889年に生まれますが、武者小路千家11代一叟宗守に息子がいなかった為、養子として迎えられました。
聴松宗守が9歳の頃に一叟宗守が亡くなり、聴松宗守がまだ幼かった為、表千家に引き取られ11代目瑞翁宗左や12代目敬翁宗左などから茶道を学びました。
その後多くの知識を学ぶ為東京帝国大学へ入学、国史学を専攻し、学業に励みました。

聴松宗守が表千家に引き取られていた期間、武者小路千家は一時中断していましたが、大学卒業後に武者小路千家を再興させたのと同時に12代目を継ぎます。
その後、37歳で官休庵を改築、51歳では利休居士350年忌に際して弘道庵を再興や門流の編成を近代的に改め、優れた門弟を輩出するなど数多くの功績を残しました。

茶道に励むかたわら、「茶道妙境」「茶道風与思記」の著書や、自らの所論を発表したりと茶道研究に対し大いに活躍されました。
多くの知識を兼ね備え活躍した聴松宗守は、64歳でこの世を去ります。

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