香川景樹 かがわかげき(1768―1843)

 
2-25 香川景樹 和歌 松鴬 15,000円
      
御歌所参候正三位男爵藤枝雅之 箱書
掛軸寸法(幅)26,2×(縦)137cm
本紙寸法(幅)6×(縦)36cm 短冊

本紙は 紙本 料紙 花丸文 金泥、 短冊台表具。
細物にて すこぶる 姿良し。
書は 香川景樹 かがわかげき(1768―1843) 。
江戸後期の 歌人です。
この人の 和歌、 解りやすいですし 暖かいんです。
茶の湯にも バッチリ!

歌は 松鴬 片岡の 小松が原の うぐいすの こえさえやどに 曳きてける哉 景樹。

参考の歌に

 二十番          中納言家持
まきもくの檜原のいまだくもらねば小松が原に淡雪ぞ降る


   十九番          藤原仲実朝臣
 春来ては花とも見よと片岡の松の上葉にあわ雪ぞ降る


などがあるんですが 片岡の 小松が原の というのは どこにあるんでしょうか?

片岡の:奈良県北葛城郡王寺町一体の原説有り。片岡神社がある。
という解説もありますが 特定は できません。


台紙に やや 折れあります
状態 良好といえます。
強く おススメ申しあげます。

表具は 貼り風帯。
一文字 本金竹屋町
中廻し つむぎ 
天地 染紙 
軸先 遠州 黒塗
箱 桐 四方桟 上等


箱書
蓋表 香川景周歌 題山家鴬
蓋裏 御歌所参候正三位男爵藤枝雅之しるす 印。

藤枝 雅之(ふじえ まさゆき、1855年12月16日(安政2年11月8日[1])- 1922年(大正11年)3月17日[1][2])は、
明治・大正期の神職、宮内官、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・飛鳥井[1]。

お爺ちゃん、 この人 むずかしいよぉー なんなのこの人?
いや 普通の 江戸後期の歌人ですよ。
ふぅぅぅ
まあ 和歌を 気楽に たのしんでね。 お茶にも 良い感じだよ!

香川景樹 かがわかげき(1768―1843)
江戸後期の歌人。号桂園(けいえん)。鳥取藩軽輩荒井小三次の次男に生まれ、銀之助といったが、7歳で父に死別し、伯父奥村定賢の養子となって奥村純徳と改めた。年少のころから学問を好み、清水貞固(さだかた)に和歌を学んだ。26歳で和歌修業のため京都に上り、荒井玄蔵の変名で按摩(あんま)をしながら刻苦勉励し、29歳で二条派地下(じげ)の宗匠香川梅月堂景柄(かげもと)の養子となり、香川式部景樹といった。このころ小沢蘆庵(ろあん)の「ただこと歌」に啓発されて、古今伝授を伝統的権威とする二条派和歌に反発し、37歳で梅月堂を離縁となり、独立して桂園派の一派をたてた。景樹の主張の一つは中世的伝統歌学の否定であり、他の一つは復古主義歌学の否定である。賀茂真淵(かもまぶち)の『新学(にいまなび)』に対して『新学考』(1815年に『新学異見』として出版)を書いて、真淵の『万葉集』尊重と古代精神復活の主張を批判し、『古今集』を尊重しながらも「今の世の歌は今の世の詞(ことば)にして今の世の調(しらべ)にあるべし」と「調の説」をたてて和歌の現代性を強調し、近世歌論に新しい展開を示し、熊谷直好(くまがいなおよし)、木下幸文(たかふみ)をはじめとして概数1000人の門人たちは全国に桂園派の新歌風を拡大した。

 景樹は1803年(享和3)に従(じゅ)六位下長門介(ながとのすけ)に、41年(天保12)に従五位下肥後守(ひごのかみ)に叙任。天保(てんぽう)14年3月27日に76歳で没した。法名は実参院悟阿在焉居士(ごあざいえんこじ)。在焉は誠拙禅師に参禅して得た法号である。墓は京都市左京区東山通仁王門の聞名寺(もんみょうじ)境内の香川家墓地にある。著書に『百首異見』『土佐日記創見』『古今和歌集正義』など、家集に『桂園一枝(いっし)』『桂園一枝拾遺』、門人の編著に『桂園遺稿』『歌学提要』『随所師説』などがあり、そのほかに『桂園祕稿』『桂園遺芳』『桂園叢書(そうしょ)』なども編纂(へんさん)されている。

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