2-34 阪 正臣 苦? 3万円 合せ箱
掛軸寸法(幅)47,5×(縦)200cm
本紙寸法(幅)33,7×(縦)134cm

本紙は 絹本。
絵絹に日本絵の具を 塗って その上に金砂子を振った物。
絵だけではなく 色んな図柄を描くことも多い。
いわゆる 
料紙の 一種である。

極めて斬新な 掛物となっています。
そして 仮名の書は 阪 正臣

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習字、書道の時間というのが 昔は あったんですが
その頃のお手本には 阪 正臣の書が 使われておりました。

正臣の書風というのは 例えば 崩し字は 読めないのはダメ、
誰でも読める事が第一ということを 提唱したそうです。

だから 阪 正臣の書は簡潔で 読みやすいです。
その書を お手本にしたというのは 好選択で 日本国民にとっては ラッキーでした。 
それが 今現在にまで 繋がっています。 ヨカッタ、

読みやすいです。
(とはいうものの 阪 正臣の諸作品は やっぱり難しい、 トホホほほ・・・・・)

ということで ここに敢えて ご紹介申し上げます。

阪正臣(号:茅田ぼうでん・樅屋もみのや1855〜1931)は、名古屋出身の歌人・書家です。幼い頃より和歌や書に親しみ、神職や華族女学校の教員を勤めるかたわら才能を認められ、宮内庁内で和歌に関する事務を扱う部署、御歌所(おうたどころ)に入所します。以降、歌人として和歌の教育普及に携わりながら、書家としても活動しました。
 特に書家としての活躍は目覚ましく、軽やかで品格がある書風は一世を風靡しました。女子の書写教育にも力を注いでおり、教科書の執筆も数多く手掛けています。これらの活躍からやがて、明治天皇の子女に和歌や書を指南するようになり、ついには貞明皇后(大正天皇后)、香淳皇后(昭和天皇后)の書の指南役に任じられます。そして、大正8年(1919)には『明治天皇御集』の浄書を手掛け、当時の書家として最高の栄誉を得ました。
御歌所長である高崎正風や、大口周魚等が結成した難波津会(上代様の仮名書道研究会)に所属。 古筆界の 重鎮です。
御歌所長である高崎正風や大口周魚らが結成した難波津会(上代様の仮名書道研究会)に所属した。穏健な親しみやすい仮名で、女子用書道教科書の手本を書いたため、その書風が流行した。石碑の書も手がけ、全国に25基ほどの石碑を確認できる[4]。

息子の阪匡身は、父の遺稿を整理して『樅屋全集』を編纂した[2]。匡身は、海軍少将の時に戦艦扶桑の艦長を務め、1944年10月25日、レイテ沖海戦のスリガオ海峡の戦いで、扶桑が米艦隊に撃沈された際に死亡した。戦死後、海軍中将に任じられた。



題の二文字目 苦? が 読み切れません。

歌は 苦? のき(軒)のすず すずしき音は たつれども ねやには風の 入らぬ夜半かな 正臣
解りやすい和歌です。 季節はです。
内容は 風鈴の音は 涼しそうだけれど 寝室には 風が入ってこない 寝苦しい夜だことだ。
ということで 暑い夏の夜を 詠っています。


この軸の本紙の場合 金砂子で雲と 手書きで 源氏香、柳を描いています。


最後の二文字は 正臣


表具は 緞子装。 軸先は 焼物。
状態 良好です。


箱は杉。

 

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